自分を思いやれる幸せ
今日、久々にメイクができた。
人にしたら何のことらや、なのだが、私の中では
マイルストーンだ。
うつのエピソードが起こると、こんなことが起こる↓
- シャワー・お風呂に入らない(そんな気力ない)
- 歯磨きが超×100億劫(こんな日々の習慣さえデカ過ぎるタスクになる)
- 身だしなみがめちゃくちゃ(気にしてる余裕なんてございません)
- やたらとジャンクフードを欲する(自己破壊しようとしてます)
もともとお風呂大好き、おしゃれ大好き、食べ物は自然志向な私だけど、
うつに入るとこうなる。
服来て外に出れただけで大達成、よくやったね!と褒めたくなる、
そんな状態なのだ。
うつは、通常上下を繰り返す。
私が「エピソード」と呼ぶ期間は、数日から数週間まっったく
布団から起き上がれない状態である。
大きなエピソードは今まで(覚えてるだけで)3回ある。
この期間中は、躁状態のときに外出したくなったり、
好きなことができるようになったり、人に会うのもそんなに苦痛ではなくなる。
鬱状態のときには出来ないことが出来るようになるので、
「お!遂に抜け出したか!」と思うのだが、数日後鬱状態に
舞い戻り、しゅん、となることもある。
「身だしなみを整える、気にかける」というポイントなのだ
(あくまで私の場合だけど)。
躁状態の時は、色々アクティブに動くものの、
やっぱり身だしなみを気にかけるという点で何か欠けていて、
回復に近づいてきている躁状態のときは少しは気に掛け始めるのだけど、
上っ面だけでどこか雑、そしてかったるい。
この病気になって気付いたんだけど、
日々身だしなみを整えたり気にかけたりするのって、
自分が大事じゃなくちゃできない行為なのだ。
鬱病のときは、自暴自虐で自分の存在意義や価値をとことん、貶める。
だから、人間として当たり前のセルフケアができなくなる。
まるで、そんなことすら値しないんだ、って言ってるように。
どうでもよくなるのだ。全てが。
だから、人として、当たり前でごく普通の「身だしなみを整える、気にかける」、
セルフケアをしたいという感覚が戻ってくるということは、
躁病によるフライングではなく、本当の回復のサインなのだ。
よって本日、「メイクができた(したい)」、というのは、
お風呂に入って汚れを落とす、歯を磨くという基礎的なセルフケアの
更にワンランク上をいくセルフケア、いやセルフラブの域であり、
私にとって、「脱☆鬱」を意味する、祝杯に値する出来事なのだ。
(特記:スッピンの自分が一番好きだけどね!)
真の回復にさしかかると、心身共の健康はもちろん、
自分の体への有り難みがひしひしと湧く。
心が回復するまで、いつも辛抱強く待ってくれるこの体。
どんな自暴自虐にも必死で耐えて、生きていてくれるこの体。
躁状態のときには、時に何週間振りともなるのに大好きなアウトドアに
繰り出して、完全回復への足がかりをくれるこの体。
もーーーー!ありがとうーーーー!大好きーーーーーっっ!って
自分で自分抱きしめたくなる。
と、同時にごめん!ほんとごめん!って泣きたくなる。
大体、重度の鬱になる前、軽度の鬱くらいには、
体はもうサインをくれている。
肩が凝ったり、頭痛がしたり。
(私の場合自律神経おかしくなりはじめるので、下痢になる)
やばいよー、やばいよー、このままいったらやばいですよーって、
体は必死に伝えようとしてる。
だけど、私は体が丈夫な分、いやまだまだいけるっしょ、って
無理しちゃう悪い癖がある。で、結果重度になるまでに至る。
でも今回のエピソードと療養過程を経て、本当につくづく思う。
「ちゃんと声、聞いてあげなくて、ごめんね。」
丈夫だけど、コンプレックスも多い私の体。
だけど、今回はつくづく思ってる。
この体で生まれてきて良かったって。
そして、今までの分もとことん大事にするね!って。
前は、メイクをしたり、おしゃれをしたり、って単にそれ自体が目的で、
特に深い意味はなかった。
だけど、これからは、そこに、自分自身への愛があってからこその
行為になる。
人にとっては当たり前のことなのかもしれないけど、
自己肯定力がとてつもなく低く育った私には、
自分を思いやれるって、こんなに暖かくて、こんなに気持ちのよいことなのか、と
ひしひし幸せを噛み締めている。
おかえり、私。